長州ファイブ

 

日本が欧米列強の植民地化の危機にあった幕末期、
国禁を破って命がけで英国へ渡った長州出身の5人の若者たち。

彼らはそこで欧米の近代文明を積極的に学び、帰国後は、日本の近代化・工業化の舵取りとして
それぞれの道で顕著な功績を残しました。

近年彼らの評価が高まり、「長州ファイブ」と称えられるようになりました。


                             (萩博物館蔵)

長州ファイブ
(左上)遠藤 謹助 (中央)井上 勝 (右上)伊藤 博文
(左下)井上 馨 (右下)山尾 庸三

長州ファイブ ー近代化に挑んだ5人の萩藩士ー パンフレット(PDF)

 


 

19世紀なかば、産業革命により富強を遂げた欧米諸国が東アジアへ進出し、日本を取り巻く環境が激変しました。
とくに日本は、嘉永6年(1853)のペリー来航後、開国か攘夷(じょうい)※かで大きく混乱していました。
※攘夷=外敵(外国の侵略)を撃ち払って入国させないこと

その混迷が続く文久3年(1863510日、萩藩(長州藩)は下関海峡を通航する外国船を次々に砲撃し、攘夷を決行します。
しかし一方で萩藩はその2日後、5人の若い藩士を横浜港から密かに英国へ派遣しました。
彼らは国禁を破って命がけで密航し、日本人で初めてロンドン大学に留学を果たしたのです。

5人は、攘夷の実現には海軍術を身につけた「生きた器械」が必要だと考え、英国へ渡りました。
彼らは、強大な軍事力を有する欧米に打ち勝つためには、欧米に渡って最新の知識・技術を学ばねばならないと考えたのです。
ところが現地に到着すると、日本と英国との国力があまりにも違うことに気づき、攘夷は不可能であることを悟ります。

こうして彼らは、攘夷を捨てて開国主義へと転じ、欧米の近代文明を積極的に学んで日本を強い国に発展させようと決意したのです。


 

 

初代内閣総理大臣  (内閣の父)

伊藤 博文いとう ひろぶみ)
1841~1909
吉田松陰が主宰した松下村塾で学ぶ。英国留学から帰国後、倒幕運動に参加した。
維新後、政府の参与に登用され、岩倉使節団の全権副使として欧米を視察。
明治6年(1873)参議兼初代工部卿(こうぶきょう)となり、日本の工業化の礎を築く。
内務卿を経て、明治18年に初代内閣総理大臣に就任。
その後枢密院(すうみついん)議長として憲法草案の審議に携わるなど、明治憲法発布および立憲制確立に尽力した。
計4度組閣し、元老として政界に重きをなした。

 

初代外務大臣  (外交の父)

井上 馨(いのうえ かおる)
1835~1915
藩校明倫館で学ぶ。英国留学から帰国後、倒幕運動に参加した。
維新後、政府の参与に登用され、明治3年(1870)造幣頭(ぞうへいのかみ)となり、大阪の造幣寮(明治10年造幣局と改称)開設に尽力。
大蔵大輔や工部卿を経て、明治12年 外務卿となり、欧化政策を進めて鹿鳴館(ろくめいかん)時代を現出し、第一次伊藤内閣の初代外務大臣となる。
農商務・内務・大蔵大臣などを歴任し、元老として政界に重きをなした。また財界にも幅広く尽力した。

 

工部卿  (工業の父)

山尾 庸三(やまお ようぞう)
1837~1917
箱館(現 函館市)で洋学を学ぶ。英国留学から帰国後、明治3年(1873)工部省の設置に尽力する。
翌年政府に建白書を提出し、工学教育を担う工学寮(明治10年工部大学校と改称、現 東京大学工学部)の創設を実現して、工学頭兼測量正に就任した。
明治5年 工部大輔、明治13年 工部卿に昇進し、製鉄・鉄道・造船を中心とする日本の工業化に多大な功績を残す。
その後は工学会(現 日本工学会)の会長として後進を育成し、盲唖学校の設立にも尽力した。

 

造幣局長(造幣の父)

遠藤 謹助(えんどう きんすけ)
1836~1893
萩藩の博習堂(西洋兵学研究機関)で学ぶ。英国留学から帰国後、慶応2年(1866)藩主が英国人と会見した際に通訳を行う。
明治3年(1870)造幣権頭(ごんのかみ)となり、大阪の造幣寮(明治10年造幣局と改称)で貨幣鋳造の近代化を推進。
しかし、お雇い外国人キンドルと意見が合わず、明治7年 大蔵大丞に転任する。明治14年 造幣局長となり、技術者を育て、日本人の力だけで銅貨鋳造に成功した。
局内の桜並木を「通り抜け」として市民に開放した。

  

鉄道庁長官  (鉄道の父)

井上 勝(いのうえ まさる)
1843~1910
箱館(現 函館市)で洋学を学ぶ。英国留学から帰国後、明治4年(1871)鉱山頭兼鉄道頭に就任。翌年鉄道頭専任となり、新橋・横浜間に日本初の鉄道を開通させた。
明治10年鉄道局長となり、大阪に工技生養成所を設立し技術者を養成、日本人の力だけで京都・大津間の逢坂山(おうさかやま)トンネルを完成させた。
工部大輔などを経て、明治23年 鉄道庁長官に就任。明治29年 機関車の国産化を目標に汽車製造合資会社を設立した。

 

「長州ファイブ」関係略年表
文久3年(1863) 萩藩が留学生5人を英国に派遣する
元治元年(1864) 伊藤博文・井上馨が帰国する
慶応2年(1866) 遠藤謹助が帰国する
明治元年(1868) 井上勝・山尾庸三が帰国する
明治3年(1870)

井上馨が造幣頭、遠藤謹助が造幣権頭となり、大阪に造幣寮を建設する

伊藤博文・山尾庸三が工部省の設置に尽力する

明治4年(1871) 山尾庸三が工学寮の設置に尽力する
明治5年(1872) 井上勝が鉄道頭専任となり、新橋・横浜間に鉄道を開通させる
明治6年(1873) 伊藤博文が初代工部卿となる
明治12年(1879) 井上馨が外務卿となる
明治13年(1880) 山尾庸三が工部卿となる
明治14年(1881) 遠藤謹助が造幣局長となる
明治18年(1885) 伊藤博文が初代内閣総理大臣、井上馨が初代外務大臣となる
明治23年(1890) 井上勝が鉄道庁長官となる

 


 

萩・明倫学舎2号館「世界遺産ビジターセンター」にて、長州ファイブについて紹介しています。