吉田稔麿(栄太郎)の妹

吉田稔麿(栄太郎)の妹

今年は、松陰門下の俊才として知られた吉田栄太郎(稔麿)の生誕百七十年にあたる。萩博物館では四月から来年三月まで、栄太郎の特集コーナーを設けて、その史料を展示中である。

栄太郎の兄弟は、妹が一人いた。名をフサ(房)という。栄太郎とは十一も年齢が離れていた。元治元年(一八六四)、二十四歳の栄太郎が池田屋事変で亡くなったさいは、まだ十三歳(いずれも数え年)ということになる。多感な時期の少女は、兄の死をどのように受け止めたであろうか。

栄太郎はこの妹を、ずいぶん可愛がっていたようだ。たとえば、安政五年(一八五八)六月十日、江戸から叔父里村文左衛門にあてた手紙の末尾には「なお、お房も追々盛人つかまつるべくと祈り奉り候」とあり、その成長を喜ぶ(栄太郎十八歳、フサ七歳)。

文久元年(一八六一)七月二十四日、江戸から母にあてた手紙には「お房(十歳)にも手習いせい出し候よう御付たのみ上げまいらせ候」と、その教育にも心を配っていたことが分かる。他の栄太郎の両親あての手紙にも、お房へもよろしくといった添え書きが各所に見られ、その思いが伝わる。

ただ、残念なことに栄太郎が直接フサにあてた手紙というのは、現在確認されていない。元治元年一月十九日、江戸から父母あての栄太郎の手紙には、別にフサへは手紙を出さないとの旨がわざ断ってあるから、このころになると、両親とは別にフサにも書いていたようだ。

一方、フサが栄太郎に手紙を出していたことは、たとえば文久二年五月十日、竹馬の友である伊藤俊輔にあてた栄太郎の手紙(伊藤・栄太郎、いずれも在江戸)に記されている。栄太郎はフサ(十一歳)から手紙が来たと喜ぶ。栄太郎は俊輔に、フサは幼いころ芝居を見たことをほのかに覚えているとか、故郷の松本村は「俗曲など」が賑やかで、フサも面白がって見物しているのだと述べる。栄太郎は、フサは遊びに出かけるのは嫌いだと言いながら、実は胸中ではとても苦労していたので、自分も安心したと知らせている。苦しい家計の中、フサも子供なりに遠慮していたのだろう。

あるいは安政六年一月七日、松陰あて栄太郎書簡を見ると、投獄が決まった松陰が栄太郎の家を訪れたさい、フサ(八歳)が泣き出したとある。投獄が決まり、激しく興奮する松陰が恐ろしかったのだろう。過激な運動に参加する兄を持つだけに、こうしたとばっちりを受けることもあったようだ。

だが、同志たちも栄太郎の幼い妹に、なにかと気を配ったようである。文久三年三月十七日、母にあてた栄太郎ら手紙には「江戸柴田よりお房に着物一反おくり申し候」とある。かつて栄太郎が江戸で世話になった柴田東五郎(薩摩出身の幕臣)が、フサにプレゼントしてくれたというのだ。さらに元治元年一月十九日、父母あての栄太郎の手紙にも、柴田より純子を貰ったので、フサの帯にどうだろうか、といった記述も見える。

栄太郎は日ごろから、
「自分は御国にささげた身故、家をつぐことは出来ぬから妹フサに家をつがしてくれ」
と語っていた(吉田フミ談)。

その言どおり、栄太郎没後、フサは大津郡三隅村字小島(現在の長門市)の朝枝家から、義久という婿養子を迎え、吉田家を継ぐことになる。しかしこの夫婦には跡継ぎがなく、義久も没したため、義久の甥市右衛門をまたも朝枝家から迎え、吉田家を継がせた。

フサは萩松本村に住み、昭和七年(一九三二)十月九日、八十一歳まで生きた。回顧談などは残っていないが、息子の嫁フミに語っていたという昔話が昭和十三年に出版された来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』に若干収められている。もう少し早く、フサから談話を聞き書きする者がいなかったことが惜しまれる(もし読者各位の中で、生前のフサについてご存じの方がおられたら、ご一報いただけたら幸いである)。

幕末のころ、栄太郎の霊は下関の桜山招魂場(のち桜山神社)に合祀されたが、フサが献じた和歌が『桜山歌集』にある。慶応のころ、フサが十五、六歳の作だろう。

「桜山ちるとみしまの夢さめて、しのぶねざめに露そこほるゝ」

フサは夢の中で、舞散る桜の中に立つ兄の姿を見たのだろう。そして涙で枕を濡らしたのだ。仲のよい、兄妹だったことがうかがえる。