高杉晋作の帰省

高杉晋作の帰省

昨年、平成二十二年は「高杉晋作」をめぐる話題が何かと尽きない一年だったように思う。

七月からNHK大河ドラマ「龍馬伝」に伊勢谷友介さんが扮する晋作が登場し、お茶の間の人気をさらった。伊勢谷晋作の登場場面は当初、九月一杯で終わる予定だったようだ。ところが、あまりの人気ためか、十月に入っても二回登場。特に最後となる十月十日放映の第四十一話は、タイトルが「海援隊始動!」から「さらば、高杉晋作」に急遽変更されたほどだった。

また、十月二十一日発表の「日刊スポーツ」紙上の「日本史なんでもランキング・好きな幕末の有名人」では、晋作が一位に輝いた。二位は坂本龍馬、三位は土方歳三。晋作が龍馬や土方の人気を抜くというのは、いままで無かったことだろう。私も同紙からコメントを求められたので、「藩という重い荷物を背負いながら、苦悩して血を吐きながらも前に進んでいく姿が、しがらみだらけの現代人の共感を得たということでしょうか」などと述べておいた。正直に言うと、伊勢谷晋作の効果大だったのではないか。

さらに、その伊勢谷さんが萩を訪れた。彼を囲む酒席に私もお招きいただいたが、実に熱く、よく喋りよく飲む男で、私が抱いていたイメージとは異なり少々驚いた。人類が地球をより住み易い環境にするために、どうすればいいのかといった話題を、数時間にわたり真剣に話していた。リアル晋作を見た思いである。

伊勢谷さん来萩の目的は十月三十日、萩市の菊屋横町で行われる、晋作銅像除幕式に参列するためだ。江里敏明さん制作による、藩校明倫館に通う二十歳ころの晋作(像高一・八メートル)で、「立志像」と名付けられた。意志の強そうな、青年武士のイメージを見事に表現している。意外かも知れないが、萩に初めて建立される晋作銅像だ。除幕式当日は途中から小雨が降ったが、全国から大勢の方(特に若い女性)が集まり、「伊勢谷さ~ん」「晋作さ~ん」と黄色い声が飛び交って、盛り上がった。

ただ、悲しい知らせもあった。十一月十日、晋作曾孫で東京都三鷹市在住の高杉勝さんが、七十七歳で没したのだ。私は通夜の前、三鷹市法専寺でご遺体にお別れをし、ご家族にお悔やみ申し上げた。勝さんから、以前聞いた印象的な話がいくつかあるので、書き留めておく。

勝さんには年が離れた姉(故人)がいたが、彼女の幼いころは晋作の妻マサも、息子東一の妻茂も存命で、同居していた。マサの方が背丈が低かったから「小さいばば」、茂の方を「大きいばば」と呼んでいた。

あるいは、東京麻布の高杉家の近くに、政治家として栄達を極めた井上馨が住んでいた。馨は幕末のころ、晋作が最も心許した同志の一人である。明治以降も、晋作の遺族と交流があったらしい。ある時、東一の妻茂が井上家を訪れ、馨とお茶を飲んでいた。馨が「今度、うちの孫が小学校に入った」と言うと、茂は思わず近所の小学校の名を出した。すると馨は途端に不機嫌になり、「いや、うちは学習院だ」と言ったという。

どちらも他愛ない話だが、勝さんの背後に確かに存在している歴史上の人物たちが生々しく感じられたのを憶えている。維新から数十年しか経っていないころの、勝さんの育った高杉家には日常の中に、そうした空気がまだ残っていたのだろう。また一歩、晋作が歴史という無機的な世界へと、遠のいていった気がする。ご冥福をお祈りする次第だ。

銅像の話題に戻るが、除幕式後、作者の江里さんと私が萩博物館で講演をした。江里さんは銅像が出来る工程を沢山の記録写真を示しながら説明された。特に、裸体から作り、着物を着せてゆくという作業は、興味深かった。

私は自分の講演の最後に、晋作の望郷の念について話したが、これに若干補足をして本稿のまとめとしたい。

下関で勤務する晋作は、亡くなる前年、慶應二年(一八六六)一月に帰省した。同月二十三日、山県狂介(有朋)あての手紙に「舟にて廿一日に爰元(ここもと)へ著つかまつり候。田舎親父が御城下にて入り込み候気味にて、間(ま)は随分悪しくござ候」と述べる。久々の帰郷で、照れているのだろう。

数日萩に滞在した後、下関に戻った晋作は、また山県に手紙を書き、「久しぶりの帰省、双親の白髪を見候ては、気魄も衰えしばかりにごさ候」と述べる。かつて大切な一人息子である晋作が、危険な政治運動に邁進するのを、両親は反対していた。それを振り払って晋作は飛び出したのだが、両親の白髪を見ると、ためらいの心が頭を擡げるというのは、実に人間臭い。

その後、再び攻め寄せた長州征伐軍を撃破した晋作だったが、結核が悪化して下関で床に伏すようになる。同年十二月二十四日、萩の父にあてた手紙には、萩で成長する長男梅之進(数え三歳、のち東一)に触れた、次の一節がある。

「梅坊も日を追って成長、言語等も相わかり候の由、さぞさぞ御肝(おきも)焼きの事と愚察いたしおり候。この一事、私儀、大不幸(孝)中の一幸(孝)、これまた御先霊神明のお影と、かねがね落涙まかりあり候」

さぞや、家族に会い、故郷の山河にもう一度親しみたかったであろう。さらに慶応三年一月十七日、晋作が父にあてた現存する最後の手紙には、帰省予告が記されている。

「私病気には輿(こし)がいたってむつかしく、輿の動揺が胸にあい障(さわ)り、輿にては一日行も覚束無く候。右ゆえ暖気にあいなり候上は、蒸気船の便を求めたくあい期し候。蒸舶萩へ罷り越し候好便これ有り次第、突然帰省の覚悟にござ候」

春になれば、蒸気船の便を見つけて帰省すると言う。当時、蒸気船の定期航路はないから、突然帰省するかも知れませんよ、と知らせている。

しかし、それは実現しなかった。実は、旅など出来るような病状ではなかったのだ。同年四月十三日、晋作は下関新地の林家離れで息を引き取る。享年二十九。最期まで抱き続けた晋作の望郷の念は百数十年後、銅像になり萩の地に戻って来たのかもしれない。今年はまた、晋作にかんする良い話題が続くことを祈念している。