高杉晋作の好物

高杉晋作の好物

鯛のあら煮

「高杉晋作が好きだった食べ物は何か」
といった質問が寄せられることが意外と多い。食べ物につき、あれこれ言うのはみっともないと考えるのが武士である。だからだろうか、晋作は手紙や日記に食べ物について、まして感想などは、ほとんど記していない。

ただ、後年マサ夫人が山口県出身のジャーナリスト横山健堂に語った思い出の中で、晋作の好物に言及する。

「未亡人の話に拠れば、彼は、衣食住に対して頗る淡泊であった。唯だ食物で、好物といへば、『鯛のあら煮』及び長州鮨則ち鯛の白身ばかりを以て推す鮨である」(横山健堂『高杉晋作』大正五年)

この、鯛のあら煮というのは、塩だけで味付ける鯛の潮汁のことかもしれない。というのは、愛人うのの回顧談、小月笠峰聴取「東行庵梅処今昔物語」(『高杉晋作史料・三』平成十四年)に、次のようにあるのだ。

「平常(ふだん)旦那は、鯛のおつくりと、その骨附きの肉(み)を、塩煮にしたのが、お好きでゐらッしゃいました、だから、御病気になられましてからも、隔日くらゐには、吃度これをおすゝめ申しました」

妻にも愛人にも料理させたというのだから、晋作はよほど鯛のあら煮(潮汁)が好きだったのだろう。いまも昔も鯛は萩沖の海で、よく獲れる。江戸時代、うまいものの代表として「鯛の頭、鰻の尾、あんこうの肝、むつの眼、ぼらのへそ」とうたわれたほどだ(鈴木克美『鯛』平成四年)。


長州鮨とは何か

マサ夫人が語る、もうひとつの晋作の好物は、鯛の白身で作るという押し鮨「長州鮨」だ。ところが「長州鮨」などといった名称は、聞いたことがない。いろいろと調べてみたが、よく分からなかった。「長州鮨」はあるいは、明治になって上京した高杉家特有の呼び方だったのかも知れない。

元治元年(一八六四)三月、上方に出奔した晋作が萩に帰って来た。はじめ、外戚である妻の実家に預けられたのち、菊屋横町の自宅に戻った。喜んだ母たちは母屋で御馳走を作り、それを妻マサが離れ座敷で謹慎する晋作に届けることになる。

「最初に、『お萩』則ち長州の名物の団子餅が出来て、次に、夕餐に、高杉の大好物の例の長州鮨が出る筈であった」(横山・前掲書)。

ところがそこへ藩の役人が来て、晋作を捕らえて野山獄に連れて行ってしまう。ただし、特別扱いだったようで、高杉家ではただちに食事と寝具を獄中の晋作に差し入れた。「予定の御馳走は、其の侭、直ちに差入れになったのだ」(横山・前掲書)といったエピソードがある。

萩では古くから祭や来客のさい、鯛・鯵(あじ)・鰤(ぶり)などを使った押し鮨を、よく作って食べたようだ。『聞き書 山口の食事』(平成元年)にはこの地方の押し鮨の作り方が、次のよう紹介されている。

「魚は三枚におろし、薄くそぎ切りにする。塩を少しして、砂糖を少々入れた酢につける。ごはんを炊く間に、水でもどした干ししいたけとにんじんをせん切りにして甘からく味をつける。ごはんが炊けたら、魚を浸した酢を加えて、すしごはんをつくる。

すしごはんを木型に合わせて四角くむすび、型に入れ、平らにして、上置きに酢づけの魚、しいたけ、にんじんを形よく置いて、押し抜きでしっかり押さえて抜く。皿に盛るときに、そぼろを上に飾る。たいていは食べる前日につくり、味をなじませる」

これが高杉家の「長州鮨」と同じだったかは不明だが、いまも萩あたりではよく見かける押し鮨だ。刺身以外の物が載っていたり、甘ったるかったりするから、とくに県外の人などは好き嫌いが分かれるところだろう。

なお、愛人うの(梅処)はほかに、晋作の病気がひどくなってからは、水を飲むかわりに梨を食べさせたとか、医者から禁酒されたが、ブドウ酒は害にならないので、飲ませたといったエピソードも語っている。


珍しい鮪の刺身

晋作は十六歳の安政元年(一八五四)以来、何度か江戸の土を踏んでいるが、そこで覚えた味として、
「江戸に来ては、マグロの刺身が一番旨いといって、帰国しても、屡、其の事を話したさうだ」(横山・前掲書)

これもマサの談話による。鮪のことを仙台では春はシビ、冬はマグロと呼ぶ。江戸初期に書かれた『慶長見聞録』では、シビは死日に通じるので不吉とされ、とくに武家では敬遠されたという。このころ鮪は、庶民間でも下品な食べ物と考えられていた。冷凍技術などないから、肉がどす黒く変色しやすく、おそらく見た目が気持ち悪がられたのではないか。

ところが十九世紀になると、人目につかぬところで、鮪をこっそり食べる者が多くなる。さらに幕末に近づいた天保三年(一八三二)の二月から三月にかけ、鮪の大漁が続く。前代未聞の安値になり、江戸に一大鮪ブームがやって来た。ただし、変色を防ぐため、刺身は明治中期までは醤油漬けにした、「ヅケ」で食べることが多かったという。

それから二十年ほどたって、晋作が江戸で鮪の刺身を味わったというわけだ。おそらく当時の萩では、鮪を刺身で食べる習慣などなかっただろうから、晋作はこの「新しい」食べ物にカルチャーショックを受けたようである。


河豚は食べない

こんにち、山口県を代表する魚は河豚だそうだ。だが、江戸時代、長州藩は武士が河豚を食することを固く禁じており、もし破れば厳しい処罰が待っていたとされる(中原雅夫『河豚百話』昭和四十四年)。当時は有毒の危険が、解明されていなかったからだ。

晋作の師である吉田松陰に、「河豚食わざるの記」と題した一文がある。これによると、松陰が河豚を食べない理由として「死を憚るるに非ざるなり、名を憚るるなり」を挙げる。武士たる者、忠義のためならともかく、河豚の毒に当たって生命を落とすなど恥辱以外の何物でもない。さらに松陰は、河豚を「阿片(麻薬)」同様と考える。誘惑に負けて河豚を食べるような軟弱な精神の持ち主は、阿片が流れて来たら貪るだろうとまで言う。

ところが、これは武士の論理なのかも知れない。商都である下関の庶民は、旅客が河豚を食べなければ、嘲笑する風潮があったらしい。幕末、奇兵隊に入った商人白石正一郎の日記にも、河豚を肴に「志士」たちと酒を飲んだとの記述がある。

下関の郷土史家を称する方たちは、どうしても晋作に河豚を食べさせたいらしい。河豚の毒ごときを恐れる晋作ではない、晋作は意気地無しではないから食べたに違いないといった、根拠の無い記述を読んだ記憶がある。しかし、そんなのは蛮勇だろう。晋作も武士だからわざわざ法を破り、生命の危機をかけて河豚を食べ、自慢するようなアホでもあるまい。観光という商売と結び付くと、晋作も強引にこの程度の人物に落とされてしまうから、悲しい。

晋作が河豚を食べなかったことは、入江貫一『山県公のおもかげ』(大正十一年)に紹介されたエピソードでも分かる。ちなみにこの本は、山県の側近だった入江(野村靖の息子で入江九一の後継者)が、山県没後ただちにその思い出を著したもので、先年マツノ書店から復刻版が出た。

それによると幕末のころ、他の同志が河豚鍋で酒を飲む中、山県だけはひとり別の鍋で鯛を煮て、杯を含んでいた。その席に晋作が入って来て、四方を見回し「わが輩もこの方がよい」と、山県の側に座って「鯛党」になったというのだ。晋作は河豚を避け、食べなかったのである。これは入江が「公(山県)より親しく聞いた事である」というから、確かな話だろう。

大胆、型破りのイメージばかりが先行する晋作だが、実は慎重な性格だったことがうかがえる。「現代の晋作」を気取るみなさんは「蛮勇」を誇るが、「鯛党」になる勇気が感じられないから恐ろしい。