長州ファイブの志(3)

長州ファイブの志(3)

当時、イギリスはビクトリア朝時代の最盛期である。

産業革命は頂点に達し、「鉄と石炭の時代」「鉄道の時代」と呼ばれ、人々の暮らしも急速に近代化が進んでいた。ロンドン市街を地下鉄が初めて走ったのも、この年である。

五人が寄宿したのは、プロヴォスト街のウィリアムソン博士宅だ。

ウィリアムソン博士はUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)の化学教授である。英国学士院会員で、ロンドン化学協会の会長という要職にあった。偏見の無い国際的な視野の持ち主で、学生たちからも慕われていたという。

五人はまず、ウィリアムソン博士夫妻から英語を学ぶ。その上達は驚くほど早く、間もなく辞書を片手に、夫妻に質問しながら新聞が読めるほどになった。

それから博士の紹介もあり、UCLに法文学部聴講生という資格で入学が許された。さらに学習の合間をぬい、ロンドン市街を積極的に見て歩いた。国会議事堂や大英博物館をはじめ、図書館、上下水道、病院、公園、銀行、郵便局、劇場など、文明世界は五人に驚きと感動を与える。

五人は、欧米列強に日本が侮られた真の理由を、知ったであろう。それはただ、軍事力が無かったからではない。日本には、何よりも文明が無かったのである。いくら軍事力だけ強くなっても、文明が無ければいつまで経っても、日本は列強と同等にはなれない。その文明を持ち帰ることこそが、自分たちの任務であると、五人は気づいていったようである。五人がだれ一人、帰国後に軍人の道を歩まなかったことからも、それが推測できる。

ところが、攘夷路線を猛進する長州藩は、ついに元治元年(一八六四)八月、英米仏蘭の四カ国から成る連合艦隊と関門海峡で砲火を交え、惨敗する。それ以前、ロンドンの新聞で故郷が砲撃されると知った井上と伊藤は、母国の暴走を止めようと急ぎ帰国したが、焼け石に水だった。

しかし、長州藩はこの戦いにより攘夷の旗印を下ろす。そして列強も幕府より勢いを持つ長州藩に注目、期待するようになった。イギリスの通訳アーネスト・サトウは、次のように述べている。

「長州人を破ってからは、われわれは長州人が好きになっていたのだ。また、長州人を尊敬する念も起こったが、大君(将軍)の家臣たちは弱い上に、行為に表裏があるので、われわれの心に嫌悪の情が起きはじめていたのだ」(坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)

次に慶応二年(一八六六)前半ころ、遠藤謹助が帰国した。成績不良と健康の悪化が原因とされる。