長州ファイブの志(2)

長州ファイブの志(2)

ただし、長州藩の攘夷には表もあれば、裏もあった。

実は攘夷の先に目指していたのは、開国だったのだ。藩の重臣周布政之助は、
「攘排也、排開也、攘夷而後、国可開」
と、攘夷の真の目的は開国であると述べている。

この時期、いかに頑迷な攘夷論者でも、以前のような鎖国を続け、日本が国際社会の中で孤立し続けられるとは考えていない。どのような開国するかが、問題なのだ。

長州藩は欧米列強が日本を対等な国と認めるまでは、抵抗を続けるべきと考えていた。そして、次に訪れる新たな開国に備えるため、密航留学生を西洋に送り込もうとする。特に長州藩は、日本と同じ島国であるイギリスが、海軍力で世界をリードしていることに注目していた。

周布は長州藩の御用商人である伊豆倉の番頭佐藤貞次郎に、若い藩士をイギリスへ密航させるための手配を頼んだ。

これを受けた佐藤は、横浜に支店を構えるジャーデン・マセソン商会へ話を持ち込む。文久二年九月、長州藩が初めての蒸気船である壬戌丸を購入したのも、このジャーデン・マセソン商会であった。

当時、西洋の商人の中には、幕府の衰退ぶりに見切りをつけ、ひそかに長州や薩摩藩などに期待する者もいたのだ。

画像:長州ファイブ

こうして話は、とんとん拍子に進む。

横浜からイギリス・ロンドンに送り込まれることが決まったのは、井上聞多(馨)(二十九歳)・伊藤俊輔(博文)(二十三歳)・野村弥吉(井上勝)(二十一歳)・遠藤謹助(二十八歳)・山尾庸造(庸三)(二十七歳)の五人だ。

ところが、実行直前になり、渡航費用にかんして問題が起こった。長州藩は五人の渡航費用を合計で六百両と考えていた。しかしジャーデン・マセソン商会横浜支店の責任者ガワーは、船賃だけで一人七百ドル(約四百両)、それに一年分の学費や生活費も合わせ、少なくとも一人一千両が必要だと言う。

そこで、五人のリーダー格である井上聞多は、江戸麻布の長州藩下屋敷に貯蔵されていた一万両を担保とし、伊豆倉から五千両を借用する。保証人になったのは、長州藩士で蘭学者の村田蔵六(大村益次郎)だった。

五人が密かに横浜を発ったのは文久三年五月十二日のこと。下関で攘夷を始めたのとほぼ同時だ。この、表と裏の差が興味深い。

横浜を出発するにさいし伊藤俊輔は、
「ますらをのはじをしのびてゆくたびはすめらみくにのためとこそしれ」
と詠じている(『伊藤博文伝』)。不似合いの洋服を着せられ、髷を切られ、刀を外されたのは男として恥ずかしい、しかし、自分たちの密航留学が、日本の将来のために必ず役立つと思うから出来るのだ、という意味だ。もっとも彼らの本音は、恥ずかしいどころではない。発覚すれば死が待ち構えているのだから、恐ろしかったに違いない。

また出発前日、井上は毛利登人・楢崎八十郎・周布政之助(麻田公輔)・桂小五郎ら藩政府の重役にあてて、長文の手紙を書いている(『井上伯伝』)。

その中で、勝手な金策を行ったことをくり返し詫びた後で、
「これも不様よければ、生きたる器械を買い候よう思し召され、御緩容願い奉り候」
と、その決意を述べている。「生きたる器械」という表現がなんとも面白い。

ひとまず上海に渡った五人は、そこからジャーデン・マセソン商会が用意した二隻の帆船に分乗し、四カ月あまりかけてロンドンに渡った。