
ヒロイン・文(ふみ)
文は、維新の先覚者・吉田松陰 の妹で、杉家の7人兄妹の四女として生まれました。兄・松陰は、叔父である吉田家の養子となっていましたが、養父の吉田大助が死去したため、6歳にして吉田家の家督を継ぎました。のちに兵学師範として藩校明倫館で兵学を教えました。
杉家のすぐそばには、兄・松陰の主宰する松下村塾があり、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの若者たちが松陰のもとで学びました。文は尊敬する兄を慕って集う若者たちに可愛がられ、交流を深めます。
そして、文は松下村塾の双璧であり、松陰から「防長年少第一流」と絶賛された門下生の久坂玄瑞 と結婚します。しかし、尊皇攘夷に奔走する玄瑞は、元治元年(1864) 禁門の変で自決。夫を失った文は、毛利家に仕え、跡継ぎである元昭(もとあきら)の守役に抜擢されます。そして幕末の動乱を乗り越え、久坂家を残そうと奮闘します。
その後、美和子と名を変え、亡き姉・寿の夫であった群馬県令・楫取素彦 の妻となります。群馬の産業・教育の近代化に寄与した楫取は男爵となり、美和子は華族の妻として生きていきます。

関連スポット

吉田松陰を祀って創建された神社。境内には松下村塾、吉田松陰幽囚ノ旧宅(杉家旧宅)など松陰ゆかりの地が点在し、歴史館、至誠館があります。

幕末期に松陰が主宰した私塾。ここでは久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など幕末に活躍した志士たちが学び、彼らと文は交流を深めました。

松陰の実家 杉家旧宅。松陰、文もここで過ごしました。松陰は海外密航に失敗し野山獄に投獄された後、この一室で謹慎生活を送りました。

短くも激しい吉田松陰の生涯を、松陰の家族やゆかりの人々など70余体の等身大の蝋人形で再現しています。
松陰の生涯やゆかりの地を紹介。松陰の遺墨や遺品類など貴重な宝物を展示し、その思いを現代へ伝えています。
土佐藩の坂本龍馬が久坂玄瑞をたずねて萩へ訪れた際に、薩摩藩の田上藤七らと集い、薩長土の三藩が日本の将来を語り合った場所。

萩城下を一望できる「団子岩」と呼ばれる高台にあり、松陰、文はこの地で生まれました。現在は間取りを示す敷石や産湯の井戸が残っています。

松陰誕生地に隣接する墓所。松陰の墓と並んで、吉田家や杉家、久坂玄瑞、高杉晋作など松陰ゆかりの方々の墓があります。

松陰の叔父であり、松下村塾の創始者。この地がまさに「松下村塾発祥之地」であり、のちに久保五郎左衛門・吉田松陰へと受け継がれます。

松陰門下の双璧として活躍した久坂玄瑞の旧宅跡。松陰の妹・文と結婚しましたが、禁門の変で敗れ25歳で自刃。現在は石碑が建てられています。

松陰の妹・寿の夫で、のちに初代群馬県令となった楫取素彦の旧宅跡。寿亡き後、文と再婚し、晩年は防府で過ごしました。

久坂玄瑞とならび松陰門下の双璧と称された、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。敷地内にはゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがあります。

松陰は叔父から藩の兵学師範を受け継ぎ、明倫館で兵学の講義を行いました。文の夫となる楫取素彦もここで教授し、のちに松下村塾でも指導に当たりました。

安政元年(1854)、海外渡航に失敗した松陰は、江戸伝馬町獄から萩の野山獄へと投じられました。ここでも松陰は書を読み、講義をしたといわれています。

吉田家の菩提寺。ここには松陰直筆の書や位牌が安置されています。本堂には家系図があり、文の写真が飾られています。