2023年 周年事業桂太郎 没後110年記念
藩校明倫館に学び、3度にわたって首相を務めた
藩校明倫館に学び、戊辰戦争では参謀として活躍。明治維新後は陸軍に入り、明治31年(1898)に陸軍大臣となりました。明治33年(1900)には現在の拓殖大学を創立、国際社会で活躍できる人材の育成にも力を注ぎました。明治34年(1901)以来、3度にわたって首相を務め、国事多難な時期に手腕を発揮しました。
萩市川島にある桂太郎旧宅は、桂が少年時代に過ごした土地を明治40年に買い戻して建てたもので、規模は比較的小さく藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために作られています。
邸宅内には、拓殖大学から寄贈された肖像画や銅像、水滴により琴のような澄んだ音色を発生する水琴窟(すいきんくつ)などがあります。
桂太郎旧宅


藩校明倫館に学び、14歳のとき藩の洋式銃陣に加わる。長州戦争(四境戦争)に従軍し、戊辰戦争では第四大隊二番隊司令となり、奥羽鎮撫総督に従い東北・北陸方面を転戦した。 明治3年(1870)兵制研究のためドイツへ留学。明治6年に帰国後、山県有朋や大山巌を補佐し、近代軍制を整備。日清戦争には第三師団を率いて出征し、台湾総督・東京防禦総督を経て、第3次伊藤内閣の陸軍大臣となる。明治33年、台湾協会学校(現在の拓殖大学)を創設し、初代校長として後進育成にあたった。 明治34年(1901)内閣総理大臣となり、日英同盟を締結。明治37年、日露戦争を遂行、翌年勝利する。明治41年、首相に再任し、明治43年に韓国併合を断行、辞職後は元老となる。大正元年(1912)首相に返り咲いたが、憲政擁護運動の高揚によりまもなく辞任した。ニックネームは「ニコポン宰相」。3回内閣を組織し、西園寺公望とともに「桂園時代」を築いた。
(出典:萩データベース)
萩博物館
没後110年記念展示 桂太郎とその時代
20世紀初頭、萩出身の桂太郎は3度も首相に就きました。新発見資料をもとに桂太郎の人物像に迫ります。
大正2年(1913)に没した桂太郎の関連資料から、桂内閣時に出された「露国に対する開戦の詔勅」草案をはじめ、柴田家門あての桂太郎直筆書簡など、近年寄贈され、全国的にも注目を集めた資料を公開。桂が身に着けた陸軍大将帽や山高帽など貴重な遺品も展示し、桂太郎の足跡を振り返ります。
萩博物館